「調査」状況報告No.2

 明治維新初期の移行期政策

No1から続く

    明治維新史学会」研究報告から・その2              

 =日本史上最大の変革である「明治維新」。その変革要因や過程は、どこまで
             明らかになったのか、そして明治維新研究は如何にあるべきなのか=
                             (要旨抜粋転記
富士松)

      明治維新の歴史的位置(同史学会々員 佐々木寛司氏)

「論旨のポイント」

 明治維新の歴史的な位置づけを考えるに当たって、そのテーマは“近代化”であり、近代化指標を
世界史から見れば「資本主義」と「国民国家」の形成に帰着する。そして「資本主義」と「国民国家」
は、国際性を抜きには語れない。

 16世紀に西欧に端を発した資本主義は、次第にその範囲を国際的に広げ、19世紀半ば頃には全
地球的規模にまで拡大していったため、後進性から抜け出せていなかった“後発国”にとっては、常に
その国際的な圧力を受け続ける状態に置かれた。

 その結果、後発国は西欧諸国の模倣(資本主義と国民国家形態)を取り入れる以外、その(武力も
含めた)圧力から逃れられなくなり、
“自己否定”まで含めた変革(伝統破壊)を通じて人工的な西欧
化の途を模索する結果となった。

 「明治維新」は資本主義と国民国家と云う西欧近代の成果を我が国に導入し、以て“万国対峙”の
国是を実現させることが、最大の課題であった。「復古」と「開化」が織りなす模索と試行、西欧的
近代化・幕末期以降の日本的近代化・伝統的旧慣世界の三つ巴のせめぎ合い、或いは中央と地方のあり方
等々の複雑なプロセスが“明治維新の総体”であった。

 これらの中で大きく揺れ動きながらも、資本主義―国民国家―「万国対峙」の課題が現実のものと
なってゆく。その過程での“脱亜入欧”イデオロギーが盛り込まれてゆく変革期が、“過渡期”として
の「明治維新」、近代国民国家への移行期として「明治維新」を性格づけている。

◎研究史の回顧と課題
*「歴史的位置」の研究とは、「明治維新の性格」を如何に認識するかと云う旧くて新しい枠組みの
 問題である。これら“認識”に関して、戦前から「講座派」、「労農派」と云う価値観の異なる立場
 からの研究態度があった。

*「講座派」とは、現状を資本家階級と地主勢力とが一体となった半封建的・天皇制絶対主義と規定
 したうえで、明治維新を絶対主義の成立起点とみなす研究立場を指す。

 「労農派」とは、国家権力が既に資本家階級によって握られているが、出発点となった明治維新が
 ブルジョア革命としては不十分・不徹底であるとする研究立場である。

*これら2派のいずれもが“歴史認識”の点に於いて、イデオロギーの影響を大きく受けていた事実が
 あり、また、“西欧=理想的な近代”および“日本=遅れた非近代”とする二極的な認識であった。

*太平洋戦争の敗戦とそれに続く被占領・安保体制のもとにあって、歴史学界や知識人が日本の後進性
 を強調する戦前講座派の流れを汲む態度に立ち、主流となった。ともあれ、「絶対主義」もしくは
 「ブルジョア 革命」と云った二者択一的な研究態度に疑問視される流れが出来上がって行った。

*しかしながら、イデオロギーから解放された近年の明治維新史研究は、豊富な個別実証面からの成果
 をもたらしたが、他方に於いて議論の細分化が進み、包括的・総体的な観点からの「明治維新」の
 捉え方に混乱をきたしている面が生じている。

◎19世紀史スパンで見る明治維新史
*幕末〜明治と云う過渡期は、第1に、次第に余儀なくされてきた幕藩体制(領主制と身分制)の変質、
 第2に長崎を経由して入ってきた蘭学や洋学による工業的な近代化の2点が進行してゆく中で、明治
 維新による西欧的近代化が加わった時代である。
  
新旧勢力の衝突を内包し、国内近代化の担い手(豪農・豪商)と西欧的近代化の推進者(新政府)
 との軋轢、そしてこれら近代化から阻害された伝統的生活者(一般庶民)の3階層が相互に入り組み、
 混沌とした状況の展開の中で「明治維新」は進行した。

*幕末期は地方・地域の活性化(各藩などによる殖産興業・特産物づくり)が進んでいた時代でもあっ
 たが、明治維新による国家形成の施策は、こうした地方地域の活性化の方向へとは向かわず、画一的
 な統合による地域編成への途を模索し、中央の統一的権力による“西欧的近代化”の強力推進、特定
 地域での工業化と都市化であった。
*この変革期には「明治維新」が挟まれていて“断絶”が存在するとは云え、それは政治権力の在り方
 に最も顕著に現れたのであって、地域社会の成長性や有様が一変した訳ではなかった。歴史的連続性
 と断絶性とを、江戸後期近世史と明治維新史と云う時代区分や事象で限定して見ることなく、19
 世紀史スパンで歴史を見る
 べきであろう。


◎近世に於ける領主制と官僚制の変容
*領主制の変容をもたらした大きな要因は、都市を中心とした商品経済の発展に基づく。幕藩体制下に
 あって「土地永代売買の禁令」があったにも拘わらず、豪農と小前農民との間の“質地関係”は、
 江戸中期末頃から浸透して行った。質地関係と云いながら、実態は“土地売買”と変わってなかった。
 小前農民の有したはずの“土地占有権”は、この質地関係を経るに連れて“土地処分権”にまで変容
 したのである。すなわち、本来的には領主が有していた「土地領主権」が後退し、資金力ある豪農が
 差配できる経済的環境ができ始めていた。

*その背景にあるのは、同時期以降に顕現化していった“農業技術の向上”と、それがもたらした恒常
 的な生産剰余であった。すなわち、農地が利殖の対象としての位置づけを持ち始めたことを意味する。
 それと同時に、他方で土地所有が媒介となっていた“共同体的論理や秩序”が変容を余儀なくされ、
 弱体化したり、崩壊したりしていった。請け戻し慣行が存続している一方で、「永代売買証文」も
 現れ始めるのである。すなわち、土地を媒介とした“領主”と“領民”の関係の形骸化が認められた
 のである。

*質地関係を経由した実質的な“土地所有権の移動”は、豪農地主による土地収奪=高利貸的資本蓄積
 でもあり、そこから得た収入により小農経営者を使い在来産業の展開を担い、さらなる資本蓄積を
 進めた。

*さらに別の方面からの変容が領主制に及んでいた。官僚組織の発達である。身分制の外観は変えずに、
 “養子制度・御家人株売買・足高制”の3つの制度を駆使して、能力主義的な昇進の弾力性と組織の
 有効可動性を実現していった。

*農村に於ける商品経済活動の進展、ならびに武家階級内部での官僚制の発展は、なし崩し的に幕藩
 体制・領主制の根幹を揺るがしていったのだが、それが長時間をかけ、なし崩し的であったがために
 幕藩体制の解体にまで至らず、国外からの大きな“外圧”インパクトが有効だったと考えられる。

◎明治維新の歴史的位置づけ(資本主義と国民国家)
*明治維新の歴史的位置づけのテーマは“近代化”であり、その指標を世界史経験則から見れば「資本
 主義」と「国民国家」の形成に帰着する。「資本主義」が16世紀の西欧圏に始まり、「国民国家」
 はフランス革命を契機として18世紀末〜19世紀初頭に、同じ西欧を中心として成立している。

*資本主義の基本構成要素は、“資本”と“自由な労働力”であるから、資本主義の成長は、すなわち
 「国民国家」的形成と切り離せない。同時に、国民国家の形成には資本主義的な発展が不可欠の前提
 となっている。

*「論旨のポイント」に述べたように、明治維新が極端な西欧化を進めた、進めざるを得なかった背景
 には、こうした世界史的情勢が明らかに介在していた。「明治維新」とは、この19世紀後半段階に
 於ける世界史的近代化への“主体的参入”であり、日本に於ける近代国民国家・社会の一応の確立を
 意味するとともに、体制的成功と考えられる。

*以上のような観点から、明治維新なる改革・革新の“時期設定”を試みるならば、国家的な危機意識
 高揚の直接的契機となった「ペリー来航」(嘉永6年
1853)を「起点」とし、対外危機に基づく
 旧体制解体から、新体制創出がほぼその形を整えた大日本帝国憲法発布(明治22年)および議会
 開設(同23年)を経て、日清戦争突入(明治27年)を「終点」とみなすことができる。

◎復古と模倣の明治新政府
*「資本主義」と「国民国家」形成のための西欧化政策は、国境域の確定、国民創出・国民皆兵制、
 資本主義諸制度と西欧文明文化の導入が矢継ぎ早に実施された。当然のことながら、こうした西欧化
 政策は、日本独自の近代化方途および伝統的な世界との間で様々な軋轢を起こすことになる。

*しかしながら、すべての近代化プロセスが西欧的国民国家の姿態そのままで、我が国に移し替えられ
 た訳ではなかった。“復古”と“模倣”と云う異次元の手段を合作・併存させながら進行させたの
 である。“復古”と云う「国家統一」の理念を提示し、その求心力として、我が国の国家体制開闢
 以来の天皇権威の“正当性”と“神聖性”を摘み出し、祭政一致の官僚制を復活させたことにある。

*「一君万民論」を政治理念として掲げ、幕末の志士の朝臣化と維新官僚化とする“復古イデオロギー”
 が有効に作用したかは検証された訳ではないが、政府官僚や知識人層が当時の対外的危機意識を
 強烈に意識し、国民国家の創出を急いだことは疑いない。
 「皆欧米各国ニ行ハルヽ所ノ現時ノ制ニ倣イ‥‥此開明ノ風ヲ我国民ヲシテ速ニ同等ノ化域ニ進歩
 セシメン」と、西欧的な諸制度を模倣した諸政策が実施されていった。

◎国民国家政策の展開と民衆動向
*西欧的な資本主義と国民国家の創出施策への大きな課題の一つは、これら施策を支える兵士と労働力
 の水準確保であり、新たな財政制度の確立であった。明治5〜6年の推進された「学制による教育
 制度の導入」、「徴兵制による常備軍編成と国防軍事力整備」及び「地租改正による土地税制改革」
 の実施、並びに「殖産興業」がこれに該当する。

*しかしながら、「国民皆学」や「国民皆兵」施策は、“国民化”課題を背負わされた一般民衆には、
 当時としては現実世界との懸隔、すなわち学費負担や労働力不足などのしわ寄せが大きく、結果的
 には就学率の停滞、徴兵制反対一揆(西日本)あるいは免疫悪用の徴兵逃れが頻発した。国民皆兵
 制度の原則は宙に飛んでしまったと云ってよい。

*徴兵該当の次男の父親が提出した「身代金御下願」(明治6年3、4月)二通が残っている。
 次男は「極貧男小前之者ニテ御貢未納決済ノ為」同年一月〜十二月の一年間、年季奉公に出ており、
 徴兵に応じる代わりに身代金下げ渡(借金肩代わり)願い出ている。

  「御検査之上皇国保護之為御人数御編入ニ成 頑愚之者ニ而モ御採用相成候儀候ハハ 何卒
   肝寛典之以御仁憐ヲ‥(中略)‥一家者共御憐助
思召身代金之儀者御下相成候様幾重ニ茂
   
奉懇願候」

 とあり、これには嘆願者と共に惣代や戸長代の連名があり、国民皆兵の理念と農民の意識には大きな
 乖離があった。

*西欧的生活倫理の強要や従前からの民衆的生活慣習の禁止令(違式註違条例、旧慣禁止令)による
 生活風俗へ権力的規制が進められてゆく過程で、新政全般に対する民衆の情緒的な不満な強くなって
 ゆき、それが契機で一揆へと突入することも珍しくなかった。

*「土地税制改革」については、日本的近代化の進展基盤(寛政期以降の「惣代制」導入)に上乗せ
 して進めた西欧的近代化の一つで、その過程で様々なトラブルを惹起しながらも当初理念をほぼ達成
 している。

◎“明治維新”なる過渡期の終焉
*すでに見たように、幕藩体制下で次第に萌芽していった豪農・豪商等による“日本的近代化”が緩や
 かに領主制の矛盾を具現していったのに対して、ペリー来航に代表される西欧化インパクトが大きく、
 一気呵成に西欧近代化論理を日本社会に適用したのが“明治維新”だった。

  そして明治政府は、自らの正当性を示すために“王政復古”と云う論理を導入、その下での西欧化
 (開化政策)を進めた。つまり、“復古”と“開化”なる一見相反する理念によって、その政策が組
 み立てられていった。

*しかし、その過程は複雑な経路を辿っている。西欧化の体現者は官僚と政商であったが、他方の近代
 化の担い手であった豪農・豪商等とは、政策面で必ずしも利害が合致せず、民権運動の一部を主体的
 に担いつつ抵抗を開始し、また一部は新政府と深く連携もした。

  そして伝統的慣習社会の中に存在した“民衆”は、新政府の進める旧慣禁止西欧化政策に対して
 「新政反対一揆」で抵抗し、日本的近代化の進展から生じる諸矛盾に対しても「世直し一揆」なる
 抵抗運動を展開した。

*民衆の新政抵抗が一様であった訳ではなく、その動向は複雑だった。「地租反対一揆」の中には
 “石代価引下げ運動”と表現される騒擾も含まれ、土地所有権が国家的に保障されたことで直接的な
 反対運動とはなっていない。また、「学制反対一揆」の数が意外と少なかったのも、地域レベルでの
 有力者寄付金による授業料負担軽減や就学忌避が比較的容易だったためと判明している。さらには、
 「徴兵制反対一揆」や「解放令反対一揆」は、地域が星日本に偏在していた傾向も指摘されている。

*太陽暦への変更(明治5年12月3日→同6年1月1日)および定時法への改正では、民衆は頑なに
 旧慣を保持し、新制度への同化を拒んでいた事実がある。民衆の日常生活と合致しないと云う単純
 明快な理由から
 であった。

 因みに、新暦や定時法が全国的に浸透したのは明治30年以降であり、新政府学制によって教育され
 た世代が社会の中枢を占める時代の到来を意味していた。

*“国民皆学”、“国民皆兵”もその実現には多くの困難が伴ったが、度重なる徴兵令免疫条項の改正、
 資本主義の成長による就学忌避事情緩和などにより、日清日露期にはその課題がほぼ達成されるに
 至っている。

*万国対峙の国是の下に外へと向かう明治維新は、内にあっては「西欧近代化」・「日本的近代化」・
 「伝統的慣習世界」の三つ巴の中で展開し、次第に西欧的近代化がその影響力を強くし、浸透して
 いった“変革期”と定義づける。これら三つ巴の確執こそが、「明治維新」(および維新史研究)を
 複雑なものとした“根源”であった。

*「明治維新」は資本主義と国民国家と云う西欧近代の成果を我が国に導入し、以て“万国対峙”の
 国是を実現させることが最大の課題であったとすれば、資本主義システム確立と国民国家的枠組みが
 達成された時点、そして日清戦争勝利によって独立国家としての実質を確立し得た時点が、“明治
 維新の終期”と云うことができる。

*国民文化を考えるうえで重要な意味をもつ“言語”に関しても、「標準語」なる言葉が登場、また
 言文一致の口語体文体が確立するのも、時期的には日清戦争前後であった。

                                        (つづく)

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