明治維新初期の移行期政策

「調査」状況報告No.1

 この調査報告は、明治維新初期の混乱期に明治政府が発した諸政策の結果、江戸時代に定着した日本独自
の「伝統文化」がどのように破壊され、姿を変容していったのかを探るため、明治維新史学会の研究成果(『明治
維新史研究の今を問う』友志社)から、当会の活動に参考となる記述部分を抜粋したであるものである。

         明治維新史学会」研究報告から・その1  

[緒 言]
 “明治とは”、“明治維新とは”と問い、江戸時代に形作られた数々の「伝統文化」が“維新”の名
の下に破壊され、あるいは相伝継承されなくなったのではないか?との疑問に、少しでも応えることが
できるのかを考えてみたい。

 その一つの手懸かりとして、“日本史上の大変革であった明治維新とは何だったのか”を主軸に、
「明治維新史学会」が発足30年を節目として行った過去研究の総括、ならびにその前後の学会活動から
報告された集約成果を覗き見て、「幕末期(嘉永・安政〜慶応)から明治6年」を一つの流れとして
掴んでみることとしたい。

 この時期の歴史評価の見直しが進んだのは、近年の過去10年弱にしか過ぎない。「明治維新史学会」
が大綱とした初流は、以下のようである。

 @ 文久〜慶応期の「薩摩藩」動向への評価、すなわち武力倒幕派の一辺倒評価への見直し。
 A 明治6年政変への具体的分析と再検討
 B 幕末〜維新に於ける技術面での佐賀藩の役割

      =学会創立30周年記念 毛利敏彦氏講演から=
  (毛利氏は前身の「廃藩置県研究会」(昭和55年創立)発起人5人の一人である。)
[講演論旨]
*“明治維新”とは、19世紀の世界史的条件の下で、日本社会が近世封建制度から近代資本制への
 総体的な転換であった。近世から近代に至る一大変革であるとともに、前近代から近代に至る歴史的
 には未曾有の政治的・社会的変革であった。そしてそれは、アジアとの相互関係の中で押し進められ
 たことも事実である。

*日本史上最大の社会変動で、明治維新を挟む僅か半世紀の間に、日本人の“風俗”が劇的変化を
 見たのが、その証拠である。風俗・習慣は、時間をかけて徐々に変化するものだからである。

*これらは西洋化の流れであって、幕末の開国で直面した“西洋的インパクト”が、如何に強烈で
 あったかを示している。その変革の中心課題であったのは、幕藩制から天皇制の国家体制への変革で
 ある。いわゆる 「革命」である。

*この大きな変化・変革の発端となり、原動力となったのは、イギリスに端を発した西欧の「産業
 革命」が突きつけたチャレンジ(挑戦)に対する、幕末〜明治初期の我が国のレスポンス(反応・
 応答)であり、しかも、当時の非西欧世界の中からの数少ない西欧化成功例だった。

*産業革命は、謂うなれば、“石炭・石油”をエネルギー源とした蒸気機関に代表される技術革新の
 賜である。生産と経済活動に機械力が導入され、生産性向上と大量生産が商品と原材料獲得市場が
 世界規模で広がっていった。西欧列強を支えた産業革命の物理的成果は、第一に「鉄製大砲」であり、
 第二は「蒸気船」だった。

*それらの流れに好むと好まざるに拘わらず呑み込まれ、開国と貿易を強要され、それらに対応でき
 ないところは植民地化され、その象徴的な出来事がイギリス散々やられた清国のアヘン戦争だった。

*日本の先覚者が選んだ方途は、“夷の術を以って夷を制す”だった。これは佐久間象山の言葉だ
 されるが、西欧米列強の科学技術を兎にも角にも、好き嫌いを抜きにして学び、夷狄と肩を並べ、
 あわよくば凌駕すると云う考え方だった。しかし攘夷論が大勢を占める中で、対抗しながら夷狄の
 術を学ぶのに大変な苦労をしたわけである。

*“夷狄の術”とは云っても、具体的な対象は何だったのか? 西欧米列強の加える“生きるか死ぬ
 かの圧力”とは、実に鉄の大砲と蒸気船であり、まず学び我が物とすべきは、鉄の大砲を自ら造る
 ことであり、蒸気船を運転操縦できるようになることだった。

*嘉永6年のペリー来航の時点で、鉄の大砲を造る技術・技能を確立できていたのは、肥前国佐賀藩
 鍋島家のみで、徳川幕府は“夷狄の術”を手にしていなかった。時の老中阿部正弘は、外様大名で
 ある佐賀鍋島家に頭を下げて、品川台場に据え付ける鉄製大砲の製作を依頼したのである。

*当時の佐賀藩主は十代鍋島閑叟斉正で、鉄製大砲の製造技術の自力開発を指導したキーパースンで
 ある。オランダ人ヒュギューニン著『大砲の作り方』を伊東玄朴と杉谷雍介が翻訳、佐賀藩独自の
 種本を作って、18回ほど、2年間試行錯誤の末に鉄製の大砲造りに漕ぎつけている。

  このとき、鍋島閑叟は佐賀城下田布施に「公儀御用石火矢鋳立所」なる幕府注文大砲製造所を建設、
 記録に残っているだけでも300門からの大砲が生産されている。

*佐賀藩がこうした先進技術を先取りできたのは、長崎出島の警護(長崎御番)役を福岡藩黒田家と
 ともに命じられ、外国情報に触れる中で、特に鍋島閑叟はアヘン戦争戦争と清国の半植民地化情報
 に接する。鉄の大砲と蒸気船の威力を知らされ、次は警護している長崎出島が襲われる危機感を抱い
 たとされる。
 鉄製大砲を自力製造できる技術は、ペリー来航の前年である嘉永5年に成功したのである。

*ペリー来航を受け、佐賀藩は長崎出島沖の飛び地領・伊王島や神ノ島に新式大砲を据え付けている。
 ペリー来航の翌7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航しているが、新式大砲の並んだ長崎沖では
 不用意な圧力をかけることを避けさせた効果は絶大だと見られた。

*佐賀藩は、薩摩藩島津斉彬や伊豆韮山代官江川太郎左衛門にも、伝習生を派遣して鉄製大砲の製造
 技術を伝授している、薩摩藩は4年かかってやっと習得し、韮山にも反射炉ができています。
  しかし、長州藩主毛利慶親直々の命で佐賀に派遣された長州藩士岡儀右衛門以下4名は、帰国後に
 も反射炉を作ることができず仕舞いと云う結果だった。この事実が、馬関戦争で大敗を期した長州藩、
 何とか持ちこたえた薩摩藩の違いとなって現れている。

*上野戦争の総攻撃が行われたのは慶応4年5月15日、早朝から始まった官軍と彰義隊との戦闘は、
 午後4時頃には決着がついた。特にものを云ったのが佐賀藩が保有していたアームストロング砲2門
 で、不忍池 の対岸榊原式部大輔中屋敷に据え付け、何発も打ち込まれた彰義隊は総崩れになったと
 伝わっている。彰義隊が一日ともたず惨敗を遂げ、頭取の天野八郎は脱出に成功したものの、後日に
 捕らえられ獄中で病死している。(この項、転記者の注)

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   =幕末政治史研究の課題=(大妻女子短期大学部教授 高木不二氏)

「執筆論旨」
*明治維新の全体像を整然と語れる研究が必要であって、(イデオロギーから自由な視点はあり得ない
 ことを自覚したうえで)確かな歴史事実を確認し、かつ、それらをできる限り包括的に組み込んで、
 “明治維新”と云う歴史像を整合的に描き出すことでなければならない。

*近年に於いては「社会史」的視点からの研究が加わっている。“社会史研究”とは何かについて、
 次の3点が挙げられる。

  @社会史研究は、人間が形成する社会集団とその結合形態に着目し、多様な要因を考慮しながら
   歴史的に説明し、叙述する。

  A社会史研究は、歴史発展に関する一定かつ独自の運動原理を当てはめたり援用することはしない。
  B社会史研究は、複数の社会集団相互の利害調整の必要性から、公権力の発生を必然的なものと
   考え、社会的公共性に権力の厳選を求める立場を是認する。

*嘗て“マルクス主義的パラダイム”の立場から、歴史を世界(史)的レベルから体系的に捉えようと
 する研究態度があったが、社会史研究態度は歴史の多様性を認め、夫々の国、時代の比較考察などに
 目を向け、歴史理解の体系性には拘らない特徴があると云える。

*明治維新史研究に関しても、その歴史観の立場を明確にし、夫々の研究成果を位置づけ整理してゆく
 作業がなされるべきである。そして、ソ連崩壊・社会主義神話崩壊よって、国家論的前提理論の重石
 がとれた現在、戦後の“明治維新史研究を牽引”してきた唯物史観(唯物的歴史観、マルクス主義
 史観)のうえに立った研究態度を総括し、我々はもう一度冷静に唯物史観的研究の功罪を見極めるべき
 時間的位置に立っていると認識すべきである。

  @外圧の新たな視点
   嘗て“外圧”を、軍事的・経済的圧力を優先理解してきたが、「文明力」(学問・思想・法制
   など)を含む総合的視点が求められる。幕末から明治初期にかけて外国留学した日本人が直面
   したのは「学問思想体系」(数学・物理・化学、歴史・法律、第二外国語、ラテン語等々)

   総合的理解、近代文明体系そのものであった。それなくしては、性急に学ぼうとしていた軍艦
   建設や海軍術は身につかなかった。

  A朝廷研究
   従来研究は、とかく朝廷内部の政治的対抗関係に力が注がれ、徳川幕府体制との関係性に目を向
   ける研究は少ない。“平和的カリスマ”としての天皇の権威は、それを支えていた幕府体制・
   将軍の権威凋落と共に低下し、その中で政治的実態が進んだ。そして天皇を“玉”として利用
   する倒幕派の視点が可能になり、明治維新体制へと突き進んだ。
明治になって時間が経る中で、
   天皇の政治的・社会的権威の主体性確立のため、“軍事的カリスマ”への道を選んだと云える。
   幕末近世末期〜近代を貫く長期的視点に立った天皇と朝廷研究が求められる。

  B幕府研究
   幕末期に於ける外交政策の展開と、その政策主体を見極める作業の進展が求められる。同時に
   その路線を担い影響力を与えた人物研究が必要である。

  C幕政史研究
   「藩社会」や「藩国家論」を、幕末〜明治維新に結びつける研究が必要である。藩の持つ独自性
   それ自体からは、幕末史に直結しない。政治的な関係に加え、文化的な交流などを含めた多様
   な視点から、幕府と朝廷、藩と藩などを横断的に追究し、幕末史研究を豊富な内容とすることが
   できる。

  D農村史・都市史そして民衆運動史研究

   近世と近代の過渡期の幕末史、世直し一揆など民衆運動と農村・都市史との関係は研究が不十分
   である。幕末に於ける農村・都市の変貌と民衆闘争が、政治史に反映される具体的プロセスを
   明らかにする必要がある。

  E研究分野・内容の再整理と分類
   事例研究を重ねる中で、全体としての研究史上の位置づけを明確にし、従来の政治史・文化史・
   思想史と、枠組みを超えた新たな研究分野の提言である。

  Fその他
   明治維新史学会の弱点とされている政治思想史と経済史研究の幅を、接点を求めて広げる必要
   がある。例えば、薩摩藩が外国資本と組合商法を行った際に、そこで扱われた巨額な外貨は、
   どのようにして邦貨と交換されたのか、また交換されずに残った外貨はどのように処理したのか、
   などを解明できるようにしたい。
また、幕末史と明治維新史との接合の必要性に加えて、これに
   つながる近代史研究をも接合させる研究も視野に置かねばならない。それはアジアを通して世界
   史とつながる道であり、アジア各地に於ける文明化をめぐる影響関係を、相互的・動態的に捉え
   ることになる。

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=皇室の神仏分離・再考=(京都大学人文科学研究所准教授 高木博志氏)

「はじめに:神仏分離令」
*明治3年1月3日(西暦1868年2月3日)の詔書「大教宣布」、および同年3月13日(同4月
 5日)「太政官布告」など明治新政府の政策が惹起した仏教施設の破壊運動を指す。

*これら政策は「神道」と「仏教」の分離が目的とされているが、“廃仏毀釈運動”として官民レベル
 で展開、廃寺・寺院神塔の破却・僧侶の神職転向・仏像仏具破壊・仏事禁止等が強行され、
「寺社
 領上知令」(明治4年1月5日付太政官布告)とも相まって、寺院が殆どすべての経済的期基盤を
 失い、困窮・荒廃していった歴史的経緯は事実である。

*江戸天保期以降に於いて、“尊皇攘夷”思想が優勢となり、結果的に“討幕運動”につながったこと
 には、国学者平田篤胤の「復古神道」と水戸学の「尊皇」思想が結びついたとされる。

*平田篤胤は秋田藩士であったが、江戸へ出て湯島天神近くに住み、本居宣長没後の門人として独学で
 国学を学び、宣長の「古道説」を引き継いだ。これを平田は“復古神道”と唱え、宗教としての神道
 理論確立の精力を注いだ。門人は、没後を含めて1
,300余人を数え、神官を始め農民・下級武士層
 に及び、特に平田晩年は“草莽の国学”として幕末期の「尊皇攘夷運動」に大きな思想的影響を与え
 たと評価されている。

*廃仏毀釈運動の浸透度は、地域により大きな差が生じているが、幕末期〜明治初期に於ける平田国学
 や水戸学の普及度の影響された結果との評価もある。また、江戸時代を通じて禁教対策としての仏教
 政策、或いはまた、民衆に義務づけた“檀那寺・宗門人別”政策のもたらした蔭の弊害がアクセルと
 なった面も否めない。

*幕末の外患に対して、幕府および朝廷ともに「攘夷」を求める声が強まったことも事実であり、
 「王政復古の大号令(慶応3年12月9日)」を契機として、「祭政一致国家」への回帰(神祇官
 制度復興)と「神道」による国家統合(「国家神道」)へ強い時流が起きたことも事実である。

*明治22年制定の「大日本帝国憲法」第28条が“信教の自由”を唱い、これにより国家神道の体制
 下であっても、私的には仏教を始めとする諸宗派への“信仰の自由”が形成されることになった事実
 を踏まえるとき、“廃仏毀釈”と云う打ち壊し廃棄運動は結局何であったのか、どのような歴史的
 評価がなされているのかの疑問にたどり着く。
                                    (以上、転記者の注)
 

「執筆論旨」
*宮中に於いても「神仏分離」は行われた。明治4年3月、宮中御黒戸(真言宗仏壇)の廃止に始まり
 門跡号・太元帥法・後七日御修法の廃止、(御黒戸移管先)共明宮の方広寺内設置などが実施されて
 いる。そして春秋二季皇霊祭(明治11年6月5日)制定以降は、神道式の祖先祭祀が完成し、皇室
 の信仰や日常の祖先祭祀、葬儀などに仏教が介在しない状態が、今日まで続いていると云うのが、
 通説的な印象である。

*然るに、大正天皇の貞明皇后節子の葬儀に於いて、念仏やお題目を唱える“神仏混交儀式”が戦後
 にも残っており、宮中に於いても仏教の関与があったことが判明している。その他にも、明治天皇付
 女官柳原愛子や園祥子の法華宗信仰、昭憲皇太后(明治天皇皇后美子)の日蓮宗への関わりなども
 報告されている。

*本論で示す“皇室の神仏分離”の重要な点は、明治10年1月3日に、すべての皇族の奉祭が建前は
 神式だが、皇室の私的な領域に於ては“仏教信仰”への許容が、宮内省により制度化されたことに
 ある。皇族の私的な仏教信仰は、明治11年に成立した春秋二季皇霊祭、同12年落成の東京新宮殿
 での皇霊祭や全国に治定された天皇陵祭祀が“国家神道”の下で行われた体制下でも保障・許容され
 たことになる。

*このことは、明治22年制定の「大日本帝国憲法」第28条が“信教の自由”(但し「日本臣民
 安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」の下線部の臣民
タルノ
 義務
の解釈による。)の枠組みを示し、これにより国家神道の下での“日本型”政教関係、
ならびに
 私的には仏教を始めとする諸宗派への“信仰の自由”が形成されることになる。

   以上のことから、皇室の私的な領域での“仏教信仰”の継続が、同憲法制定以前から継続されて
 いたこととリンクしていたのである。

*さらには、明治16年、岩倉具視建議による賀茂祭・石清水放生会・春日祭の復興は、“神社”の
 私的領域に於ける「旧儀」復興であり、後七日御修法は“仏門”の同領域での再興だった。

*ここで「泉湧寺」事象を取り上げる必要が生じる。泉湧寺は、皇室の菩提寺に当たる香華院である
 が、9世紀に藤原緒嗣建立の天台宗仙遊寺が建保6年に再興され、その後後鳥羽・順徳・後高倉院の
 帰依により、朝野の信仰を集めたとされている。

*泉湧寺月輪陵への天皇の埋葬は仁治3年1242 の四条天皇に始まり、その後に、後光厳・後円融・
 後小松天皇などが泉湧寺で火葬された後、南方にある深草北陵に合葬されている。また、江戸幕藩
 制の成立以降は、後水尾・明正・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桜町・後桃園
 の諸天皇が火葬擬態の後に土葬され、後月輪陵には光格・仁孝天皇が埋葬された。

*近世の泉湧寺埋葬は後光明天皇に始まって、葬儀(承応3年)も幕府の経済的援助により大規模に
 行われ、また幕末には、朝廷権威の相対的浮上の流れの中で、慶応元年12月27日の孝明天皇の
 勅「市場帝以来御代々御陵守護之官寺
皇祖御尊敬之訳ヲ以 諸寺之上席可為」とされ、後々まで近代
 泉湧寺の地位回復の根拠となった。

*慶応2年12月25日に孝明天皇が崩御、翌3年1月27日に大喪の儀が執行された。泉湧寺々門
 と分離された後月輪東山陵に、僧侶を排除したうえ、山稜御用掛と諸陵寮官人による神祇式祭典形式
 で執行され、埋葬されている。(前記の泉湧寺地位回復の勅を出した孝明天皇の祭祀にも拘わらず、
 既にこの時点から仏教排除の政策が進行していたと見られる。)

   「口達」:来ル廿六日 仁孝天皇様廿五年御祭儀於御塔前被 為行候ニ付 泉湧寺僧徒一切
        不携
候様可申達候事   正月廿三日  御留守官役所
   「付紙」:神祇式ヲ以御祭典被 為行候ニ付 御法事不被仰付 寺門心得ニ而御回向申上候
        儀者
可為勝手候事

*王政復古後の慶応4年3月25日、孝明天皇三回忌(三周年祭)で神式の祖先祭祀が始まっている。
 紫宸殿の神座にて明治天皇が拝礼し、神祇官知事が幣物を共進、祭文奏上、昇神の儀を修するなど
 の神祭が行われている。公式行事は“神式”と云う定式が尋常となった。

*皇室の神仏分離が、神仏判然令により行われたのは3年遅れの明治4年5月からで、京都御所お黒戸
 廃止と水薬師寺への仮遷座、門跡号・比丘尼御所号廃止、各寺院の御所号・門跡号・院家・院室名称
 の廃止、諸家執奏の廃止、祈祷巻数その他の献上物の廃止、大元帥法・後七日御修法の廃止、諸寺・
 諸山勅会の制の廃止と続き、同年10月17日の由緒ある寺院への下賜金廃止へと続いていった。
                              (その2へ続く→)

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